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開かずの扉の謎

皆さんは、超芸術「トマソン」についてご存じでしょうか。

日常に紛れてなぜそこにあるのかわからないような構造物のことを言います。芥川賞作家(尾辻克彦)で前衛芸術家だった故赤瀬川原平氏の命名によるものです。

​次の写真の扉、まさにトマソン的ではありませんか?

PXL_20231206_034224070.jpg

右の扉には石の階段まで付いています。

一体これらは何なのでしょうか?

平成13年山形県教育委員会発行の「山形県の近代化遺産―山形県近代遺産総合調査報告書」の「1旧山形師範学校講堂」(東北芸術工科大学 宮本長二郎教授執筆)の中に、

演壇背面の入口と、中央張出しの関係から、当初の演壇の間口は背面の二つの入口間にあり、背面の張出しの現状は、内側に壁を設けてデッドスペースとしているが、当初は祭壇としていたと考えられる。

と書かれています。

PXL_20231206_034526413.jpg

横から見ますと、中央部分は確かに半間分の張出しが確認できます。

​明治41年当時の写真では、こうなります。門衛所もはっきりと写っています。

さらに、その横に小さな屋根らしきものが2つ。どちらかが奉安殿でしょうか。否、奉安殿の造られたのは昭和14年という記録があります。

西妻側明治41年.jpg

平成10年県有形文化財指定の際の調書(東北大学佐藤巧名誉教授)では、「西面妻側壁面は拡張の際、そっくりそのまま現在位置に移動したものとみられる。」とあります。西面だけを30尺分西側に平行移動させ、土台も含め、屋根、壁面、床も延ばしたというのです。その時に、正面の演台の形状は変わり、現在のようなステージの形になったようです。

​そこで、明治の創建当時(増築前)に内側から写された写真を見ると、、、

明治40年絵葉書祭壇トリミング.png

確かに、壇上に祭壇らしきものがあります。カーテンで覆われ、内部は見えません。

この建設当時のものと思われる写真には、ピアノやオルガン、音符黒板もあり、音楽教室兼用と思われます。そして、演壇正面壁面には御真影と教育勅語を奉る御真影奉置所が見えます。

明治25年(1892)7月文部省令第12号「尋常師範学校設備規則」が施行され、明治28年3月の 『学校建築図説明及設計大要』)で次のような具体的図面が提示されました。ここでは、師範学校の講堂兼音楽教室の欄に、「校舎の中央に設け、採光十分にし、天井高1:室幅2:同長3の割合、御真影奉置所(奉掲所)を設け」などと規定されており、設計例として60坪の講堂が紹介されています。

因みに皆様、学校の教室を頭に思い描いて頂くと窓はどちら側にあるでしょうか。

だいたいの方が、左側をイメージするのではないでしょうか。

ではその理由は、、、?

それは、およそ昔から日本では、右利きの人が多かったようで、ノートをとる時、手の影で文字が見えにくくならないようにするため「教室の窓は左側にし、光を生徒の左側からあたるようにする」と決められ、こうなったのだそうで、その根拠となったのが、この「学校建築図説明及設計大要」という国からの規則(法律的なもの)だったのでした。そしてその根拠となる論文を発表したのは、当時の日本の学校衛生をリードした三島通良(みちよし)という方だったそうです。かの三島通庸(みちつね)さんのお名前とよく似ていますね。

これはもしかしたらお2人はご親戚???

 

明治28学校建築圖説明および設計大要より仮想設計図面.jpg

​これが、増築後の昭和13年、師範60年の記念録によりますと、このようにカーテンが開かれた状態で見ることができます。​これすなわち、「御真影奉掲所」と呼ばれるものであったとわかります。

昭和13年創立60祭壇開き.jpg

時代は進み、大正十二年十一月十五日の真夜中、師範学校の寄宿舎(馬畔寮)から火災が発生し、生徒7名が焼死するという傷ましい事故がありました。、棟数20約千坪とありますから、凄まじい火事だったようです。翌日の山形新聞では社会面1ページ全部を使って詳報を掲載していますが、幸いにも「軍隊及び消防隊の大活動によって、危険に瀕した講堂及び本校舎実験室は無事なることを得た」ということです。

中に「御真影 井上書記奉遷」という見出しの記事があり、ここでは、当直だった職員が、御真影を持ち出して、寄宿舎から少し離れた附属校の入口まで搬出したという内容が掲載されています。

明治23年の教育勅語発布以降、各学校では、教育勅語の奉読と天皇・皇后の姿を写した御真影を拝礼する儀式が定着し、厳重な保管・管理が命じらていました。そのため、火災などから御真影を守ろうとした教師が殉職する事件も多く発生しており、美談として顕彰されるような風潮も広まっていく、そんな時代が見て取れる当時の新聞記事でした。

この、「御真影奉掲所跡」はそうした明治から大正、昭和と続く教育史の断片をも物語っており、そうした意味でも価値の高いものであると言えると思います。

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