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増築の謎

講堂は増築されているようだ という話は実行委員会発足当初からありました。

平成10年の県有形文化財指定の際の東北大学佐藤巧先生による調書にも「(前略)西側桁行30.0尺分は後補とみて誤りはない。 (中略)この変容、増補の年代は具体的な不詳であるが、大正末年頃までには改変が行われたものとみられる」とあります。

しかし、その明確な時期や理由については全く分かりませんでした。

そこで実行委員会で調べを進めると、明治34年の創建当時の図面から縮尺に基づいて計測すると、約85坪という数字がでてきました。

また、「山形師範沿革史」及び、明治41年の「創立30年記念録」には、87.5坪という記載がありました。

いっぽう、昭和13年の「創立60周年記念 山形県師範学校要覧」には127.00坪と記録されています。

87.5⇒127.0

​この間に何らかの改変があったことは明らかでした。

古い山形新聞記事や県議会史等に当たって調べを進めました。

明治44年の山形市北大火の際、県庁舎や山形中学校校舎など多くの建物が焼失しましたが、被害を免れた講堂は、2度も県議会仮議事堂となっていることが分かりました。この時、講堂の現状は余りに狭いということで、急遽拡張工事がなされたのでしょうか、、、。

しかしながら、その後の県議会の会場を調べてみても、講堂が会場として使用されたという事実はいっこうにでてきませんでした。

そして、さらに調べを進めた結果、次のことが判明しました。

大正14年4月の師範学校令改正(文部省令第八号)により、師範学校の生徒数が大幅に増え、既存講堂では狭隘となった為、急遽、増築することとなり、工事は同年10月に着工し、12月下旬には竣成(西側切妻面を30尺平行移動、南北壁面窓は8⇒12に)、すぐに使用が始まった。

 

 

さらに調べを進めると、この時期に師範学校生だった石垣貞次郎氏の随筆「続山形県師範学校」(みどり新書の会発行 昭和47)によれば、

 

 「わたしたちの入学したのは大正十四年五月十五日である。 ちょうどその年の四月に師範学校規程が改正され、本科第一部の修学年限が五年となった。 五年生第一回の入学生としてこの日を迎えた。 この年の四月に入学した四年制最後の入学生はわずか一カ月で二年生となり、順次押し出しの進級で五年制の師範学校がここに出現した。」

 

などと、まったくもって​興味深いことが書かれてありました。 この時代、芳賀幸四郎、須藤克三、村山俊太郎、国分一太郎といったそうそうたる方たちが共に学びあっていたのです。

続随筆 山形県師範学校.jpg
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