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昭和48年の怪

 講堂は本館と同じ明治34年に建設されました。

 明治11年、旅篭町に開校した山形県師範学校(当時)が狭くなったため、明治34年に緑町に新築移転されるのですが、本講堂と本館は、同一時期、同一意匠、同一材料、同一工法、同一職人の手で建てられたものです。

戦後の学制改革で山形大学教育学部校舎となった後、昭和38年に山形県に移管され、山形北高管理となります。

 そして、昭和46年に山形北高校舎新築の際、講堂も本館も共に解体されずに残されることとなりました。

 しかし…その後の2つの建物の運命は大きく異なることとなります。

「昭和48年」が、もともと一体だった本館と講堂の歩みの分岐点となるのです。

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ž 講堂は、新校舎落成後も、山形北高管理のもと、体育科の授業や様々な部活動の活動の場などいろいろな教育活動で使用されてきました。 全国的な大会で優秀な成績を残した部活動もあります。

そんな中、突如、平成10年、県有形文化財に指定されます。 しかしながら、その後も、耐震対策が必要とのことで使用禁止になる平成20年頃まで、引き続き、部活動等で使用され続けました。

 以来、放置されたままで現在に至り、荒廃が進んでいます。

 本館は、歴史的建造物としての文化財的価値が認められ、昭和48年6月に国の重要文化財に指定されました。そして、大規模修繕が施された後、昭和55年より、県教育資料館(県立博物館分館)として県の管理に移ることとなりました。

 同年、正門と門衛所も国重文の追加指定(昭和55年)を受けます。

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さて、ここで、いくつかの大きな疑問が湧きます。 たち実行委員会では、これらの謎を解くために県の担当課に調査をお願いしましたが、 次のように回答をいただきました。 

疑問1 いったいなぜ、本館が国の重要文化財指定を受けた際に、講堂はそこから外されたのでしょうか?

 

「資料が残っておらず、 よく分からない」 ということでした。 ただ、「県の保護審議会の記録の中に、『旧講堂が指定候補にならなかったのは、 北高の方で今使わなければならないという意向があった』 の一文があった。」 とのことでした。

疑問2 昭和55 年に、正門と門衛所 はなぜ、追加指定になったのでしょうか?

 

県からの回答は「文化庁の説明資料の中に、『本館と同時期に建てられており、本館と一体として保存する価値があるという一文があった。 」とのことでした。

疑問3講堂が平成 10 年に県有形 文化財指定になった経緯及びその時国重文指定にならなかった理由は?


県の回答は「県指定になった経緯について、はっきり記録上残っているものはなかったが、県指定の際の調書には『すでに国指定となっている本館ともども一体のものとして文化財に指定し、 その保存と活用が計られるべきである』という文言が残っていた。 その際、国指定にならなかった理由について、関係する資料は発見できなかった」というものでした。

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