布基礎段差の謎
平成10年県有形文化財指定の際の調書(東北大学佐藤巧名誉教授)には、「基礎布切石、一部一段積、一部二段積。床敷。」 としかありませんが、平成13年山形県教育委員会発行の「山形県の近代化遺産―山形県近代遺産総合調査報告書」の「1旧山形師範学校講堂」(東北芸術工科大学 宮本長二郎教授執筆)の中に、
「床面は、身舎側廻りの布基礎が、東半区を高く、西半区を低くしていることからみて、当初の床面に段差を付けていたものと考えられ、(以下省略)」
とあります。
確かに段差があります。 ですがこれはいったい何のため?
また新たな謎の出現です。
これについては、委員の一人でもある阿子島功先生(山形大学名誉教授)が仮説を述べられていますので、こちらをご覧ください。(なお、阿子島先生はこの仮説の前に、明治大正と馬見ヶ崎川氾濫による洪水が頻発していたことから、浸水対策ではないか、という可能性についても述べられていました。)
いかがでしょうか。
確かに明治の写真をよく見ると、床に並べられた長椅子の高さが前の方と後ろでは微妙に異なっているように見えます。さらに目を凝らしてみると、段は2段にとどまらないようにも見えます。阿子島先生の資料に出てくる「学校建築圖説明および設計大要」に示されている「通常教室及び理化学講堂切断図」は階段教室になっていますから、これを手本に設計された可能性もあるのかもしれません。
その後、さらに調べを進めると、創立満30周年記念録の写真から、次のように、横長ベンチ型椅子の高さから、少なくても3段の階段型になっているようにも見えます。確証はありませんので、さらに調査が必要です。新たな写真などの発掘が待たれます。
そして、さらにさらに、
山形大学教育学部九十年誌(山形大学教育学部同窓会発行1968)には、移転新築時の堀義太郎校長の手記の中で「講堂内に段を付けることは自分の考案でやりました。」という記載があることが見つかりました。
漸く、噂の域を出なかった「以前講堂は階段状だった」ということが事実であることが判明したのでした。
最後に、堀校長の意図はどこにあったのでしょう?
講堂兼音楽教室であることを意識されたのでしょうか?
文部省の図面を意識したのでしょうか?
皆さんはどうお考えになりますか?