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講堂が印刷工場になった? 

令和6年6月24日、私たちは、天童市在住で師範学校予科に昭和20年に入学し26年3月に卒業、そして山形大学(4年制)を28年3月に卒業されたというOさんから大変貴重な証言をお聞きすることができました。

この方の記憶によれば、

入学式は(この)講堂で行われた。 そして、入学式直後、床面が取り払われ、印刷機械が入った。 女生徒が職工をやった。

というのでした。

 

終戦前後、講堂は印刷所になったのでしょうか? 

Oさんの声に耳を傾けた近代仙台研究会事務局長の斎藤広通さんから、これまた大変貴重な情報を2つ、いただきました。

1つ目は、山形市市史編集委員会編「山形市史」近現代偏1980(昭和55)420ページに、

終戦直前に某印刷会社が山形師範学校講堂に工場を開設しようと計画した」とある。

2つ目は、無著成恭著「ぼくの青年時代」国土社1960(昭和35)。師範学校時代の日記が記されてありますが、その7月15日のところに記載されている、

学校の方は、着々と印刷工場に変わりつつある。俺たちが入学式をしたときは、まだ床板がはってあった講堂が、完全にはがされて印刷機を据えつけるコンクリートの土台がうたれた。俺たちは毎日、活字を整理したり、活字の棚を並べ変えたり、その間を掃除したりするのが日課である。

山形師範学校は、あと一カ月程度で完全に「家の光」の印刷所になるのだそうだ。」

という情報です

実行委員会事務局でも、「家の光」社に確認したりしましたが、火事で当時の資料がほとんど残っていないとのことで、残念ながらその先については分りませんでした。

​ただ、その後の調査により、確かに講堂は、終戦直前、本土空襲の激化に伴って工場の疎開が進められ、昭和20年4月には文部省の援助、軍需大臣と関東信越地方行政協議会長の命令のもと、大日本印刷の工場疎開が、山形師範男子部に疎開することが決まり、6月時点での進捗状況は30%であったと記録されています。もっとも、8月15日の終戦により、疎開作業は中止になり機械資材の返送作業に入ったとのことです。(大日本印刷百三十年史(平成19年発行)

​また、山形県印刷協同組合が昭和46年に発行した「山形県印刷文化史」には次のようにあります。

「機械据付け完了」とありますから、準備万端が整ったところで終戦を迎えたことになり、床面が剥がされたというOさんの証言と一致します。結果として、講堂は印刷工場になりかけたということになります。

大日本印刷の工場疎開.jpg
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